おはようございます。くましね薫です。
前回は天照大神の正体は、第41代天皇で女性天皇の持統天皇だと考察しました。
古事記・日本書紀が誕生する以前の太陽神は、サルタヒコやニギハヤヒなどの男性神でした。しかし、当時権力を握っていた藤原氏は持統天皇をモデルの女性神に変えてしまいました。
ではなぜ藤原氏は太陽神の性別を変えてしまったのでしょうか?
それは、強力な律令国家を作りたかったからです。
画像引用 https://www.narahaku.go.jp/collection/683-0.html
藤原氏の始祖である中臣(藤原)鎌足は、横暴な権力を振るう蘇我入鹿を引き摺り下ろすために、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に「乙巳の変」を起こします。
彼は権力を勝ち取り、国勢改革に乗り出します。いわゆる「大化の改新」です。
しかし、なぜ中臣鎌足はここまで権力を登り詰めたのでしょうか。
中臣鎌足は、歴史上に突然現れます。しかも中臣氏とは、格下の祭祀の一族です。その一族が権力のトップに君臨したのがとても不思議です。
その謎を解くヒントが、関裕二氏の著書『天皇と鬼』に記されています。
なんと中臣鎌足は、百済から人質として来日していた王子・豊璋(ほうしょう)だと言うのです!
豊璋はそのまま中臣氏に婿入りし、中臣姓を名乗った。これが関氏の考察です。
しかし、中臣鎌足=豊璋だと、年代にズレがあり、信じ難いです。
ただ、中臣鎌足が大陸か半島からの渡来人である、というのは説得力あります。
大化の改新で作り上げた「大宝律令」も、唐の律令を参考にしています。
前回でも書きましたが、藤原鎌足が教育係りをした持統天皇は、唐の女帝・武則天に強い影響を受けていました。これも藤原鎌足の教育の賜物でしょう。
たぶん中臣鎌足は日本に来て驚いたと思います。
あまりにも時代遅れの政治をしていて、このままだと大陸の勢力に呑まれてしまう。そのためには一刻も早く律令国家を作り、国民をまとめなければならない。
そのためにも、強い国王を立てばければならない。
そこで鎌足が考えたのは、国王を男性にすることでした。
何度もこのブログで書いてますが、古代日本の王は女性祭祀王でした。祭祀王が太陽神からの神託を降ろし、その神託を男性が記録する、というのが一連の流れでした。
これを「ヒメヒコ制」と言います。
しかし、それでは大陸の勢力に対抗できる強い国家は作れません。
なので鎌足は、男性祭祀王をたてます。
そのためには、太陽神は女性じゃないといけません。
その仕事を引き継いだ息子の藤原不比等は、持統天皇を太陽神に仕立てあげ、男性天皇の基盤を作ります。
そしてそれまでの祭祀王は女系でしたが、男系を守ることにしました。
その歪みが、現在の皇室問題で浮き彫りになっています。
藤原氏は強力な国家の基盤を作り、日本初の元号である「大化」を発しました。
よく歴史好きは藤原氏のことを「悪者」として捉えることが多いですが、当時の国際状況を見ると仕方がないと思ってしまいます。実際に「白村江の戦い(663)」でも日本は大敗し、ものすごく焦っていたと思われます。
つまり、なぜ藤原氏は太陽神を女性に変えたのか?それは、強い国家を作るためです。
渡来人である鎌足は、大陸の状況に精通していて、日本の状況に危機感を覚えたと考えられます。そこで強い国家を作るために、祭祀王を男性にし、太陽神を女性にした。
しかも自分たちは権力の中枢にいられるので、一石二鳥です。
そして彼らは神道の姿も変えていきます。
現在、神社で年に2回唱えられるいわゆる「大祓祝詞」ですが、これはもともと「中臣祓」と呼ばれてました。
これこそ藤原氏が日本にかけた呪縛なのです!
次回に続きます。
以上は私の仮説です。
あくまでエンタメとしてお楽しみください。
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ありがとうございました。