私が生まれ育った福島県相馬市といえば、真っ先に「相馬野馬追」が思い浮かびます。
相馬野馬追とは元々は鎌倉時代に相馬氏の遠祖である平将門が行った軍事演習で、それが今では夏のお祭りとして現在まで続く、歴史あるお祭りです。
相馬地方では、馬とは神聖な生き物で、私が子供の頃は馬肉を食べてはいけないと言われるほどでした。
相馬中村神社にも立派な馬の像が立っています。
そんな風潮でしたので、私はこの「馬信仰」というものは相馬氏がこの地に持ってきたのだと思っていました。
相馬氏がこの地で普及させたものだと。
しかしです。その思い込みが打ち壊されることが起きます。
それは、相馬地方の神社の、とある伝承を発見したときです。
その伝承とは、相馬市に隣接する「新地町」にある「子眉嶺神社」のものです。
子眉嶺神社は創建702年の、ものすごく歴史ある神社です。
そのような古い神社に、「馬」にまつわる伝説があります。
少し長いですが、新地町のホームページから引用します。
“敏達天皇の御代(約六世紀ころという)、都に世にも美しい、身分えの高い姫君がいた。 ある年の三月、梅の花の風情を賞でようと、供ぞろえをし輿を召してお出ましになった。
邸内の馬屋には筑紫は唐津より献上の今帝駒という三代の天子に仕えた名馬が飼われていたが、姫の輿が近づくと、突然高くいななき、馬屋の板を蹴り上げて暴れ出した。姫はこの有り様を見て、不吉に思いその日は外出を取りやめた。しかるにその夜今帝駒は姫の夢の中に現れ、間もなく姫は懐妊した。時の大臣はかねて姫に思慕を寄せていたが、今帝駒が姫と通じたのを知ると激怒し、馬屋に入って駒を殺そうとしたが、かえって駒に食い殺されてしまった。
このため姫は罪に問われて、うつぼ船に乗せられ伊勢の二見浦から海へ流された。船は潮のまにまに、奥州宇多郡の浜辺に流れ着いた。土地の豪族糠塚太夫なる者が姫を哀れみ、浜近くに雨露をしのぐばかりの仮屋を建てて住まわせたが、後に半里ほど西へ入った相善の地に移して扶持することになった。
やがて月満ちて姫は一子を産み落とした。権太夫は赤子を見て驚いた。生まれた子の顔があまりに馬に似ている。姫の落胆を思った権太夫は子を秘して姫に見せないことにした。しかしわが子に会いたい姫の思いは募るばかり。権太夫も根負けして「それでは池のほとりに子を連れて行くから、池の水に映る子の顔を見よ」といった。その日がくると、姫は丘にのぼり池水に映るわが子の顔を見たが、驚きのあまり病気になって死んでしまった。
これより先、今帝駒は姫の跡を慕ってはるばる奥州へ下り、相善の姫と再会し、姫の無事を喜んで都へ戻って行った。この故事により、この地を駒返りの嶺と呼ぶようになったという。一方、都の方では金帝駒が逃げたのを知り、追手を差し向けた。奥州へ下ってきた追手は、途中で駒と出会い、連れ戻すことができたので、その地を行き会い道という。”
新地町史「自然・民俗編」(平成5年10月1日発行)
この伝承を要約すると、
伊勢のお姫様が、馬に近づいただけで馬の子を身ごもってしまい、その罪で舟で流され、新地町に流れ着きます。その地の豪族と一緒に暮らし、しばらくして生まれた赤子が馬の顔そっくりで、その赤子を見た姫はショックで亡くなってしまった。
その前に、馬は姫を追い新地町へ来て、姫と出会い、伊勢の地へ戻っていった。その地を駒返りの嶺と呼び、そこから現在の「駒ヶ嶺」という地名となった。
となります。
この伝承は6世紀のもので、子眉嶺神社が創建されたときには存在していたと考えられます。
子眉嶺神社は現在も「奥之相善宮」と称しています。「相善神」とは馬の神様のことなので、「馬の神様」が祀られているということです。
ちなみに相馬氏が源頼朝から相馬地方を与えられたのが1189年のことです。
つまり、相馬氏がこの地を治めるはるか昔に「馬信仰」があったということになります!
私はてっきり「馬信仰」は相馬氏が持ってきたものだとばかり思っていました。しかしどうやら違うようです。
相馬地方には、相馬氏が治める前から「馬信仰」が存在していました。
では、その「馬信仰」は、誰がこの地に持ってきたのでしょうか?
それは、東日本の蝦夷討伐を紐解くヒントになっていきます。
次回から、この歴史ミステリーを解き明かしていきます!
お楽しみに!
<よく読まれる記事>
ありがとうございました🫶