おはようございます。くましね薫です。
縄文時代考察の7回目です。
前回は、今から7500年前に噴火した鬼界カルデラの噴火の影響で、西日本にいた人々が東へ西へと移動し、その影響で東日本の縄文文化は栄え、「日高見国」が誕生したと考察しました。
ではなぜ東日本を「日高見国」と呼んだのでしょうか?
それは、日本でいちばんお日様に近い場所があるからです。
その場所は、「富士山」です。
富士山こそが、高天原だったのです。
よく『古事記』や『日本書紀』には富士山が登場しないのはおかしいという意見があります。
ヤマトタケルの東征では、富士山の横を通り過ぎるのに、富士山の描写がありません。
しかも、同時期に編纂された『万葉集』には、富士山を讃える歌があるのにです。とても不自然です。
しかし、高天原が富士山だったらどうでしょうか?実は別の名前で富士山は登場していたのです。
もしかすると、記紀を編纂した藤原不比等は、インド神話に出てくる「須弥山(シュミセン)」を富士山と重ねて、「高天原」という神聖な場所に仕立てたのかもしれません。
そして、富士山だけが「高天原」ではありません。富士山が見えるところも「高天原」なのです。
茨城県鹿嶋市にある「鹿島神宮」の敷地内には「高天原」という地名があります。敷地内といっても飛地になっていて、鹿島神宮からは少し離れています。
そこには「鬼塚」と呼ばれる古墳があり、朝廷に従わなかった鬼が埋葬されているそうです。この鬼は妖怪ではなく、ここに暮らしていた原住民です。その原住民が埋葬されている場所が「高天原」で、しかもここから富士山が見えるそうです。
つまり平地で富士山が見える東端がこの高天原なのです。
ちなみに富士山が見える西端の平地が「伊勢神宮」だそうです。
前回の記事の、鬼界カルデラによる火山灰の被害の画像を見るとわかりますが、伊勢神宮はギリギリ火山灰の被害からまぬがれています。
つまり、日高見国は伊勢神宮のあたりまでの範囲を指すことが考えられます。
平安時代中期に神社の格式について編纂された『延喜式』によると、当時「神宮」と名のつく神社は「鹿島神宮」「香取神宮」「伊勢神宮」の3つしかありませんでした。もしかすると「神宮」とは富士山が見える東端と西端を表しているのではないでしょうか。
平安時代まで、日本は富士山を中心に動いていたのではないでしょうか?
そしてその場所を「高天原」と呼ばれていた。
関係ないかもしれませんが、1985年に起きた日本航空123便が墜落した場所は「御巣鷹山」というイメージが強いですが、正式には「高天原山」です。
富士山が見えないところでも、高い山があると「〜富士」と付ける習慣があります。これは古代の山信仰である「神奈備(かんなび)山信仰」によるものです。
「山には神が宿る」。その最たる場所が、富士山近郊だったわけです。
高天原が富士山が見える場所ということは、日本神話にある「出雲の国譲り」の謎も紐解けます。
それは、東日本にいた縄文人と、西日本へ戻ってきた製鉄集団「ヤタガラス」との邂逅です。
それでは、その製鉄集団「ヤタガラス」とは何者なのか?
次回、考察していきます。
以上は私の仮説です。
エンタメとしてお楽しみください。
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ありがとうございました。