前回は、南相馬市に伝わる猿田彦の伝説から、古代にこの地にいた出雲族について考察しました。
しかし、原住民と出雲族の暮らしは長くは続きません。
それは、福島県相馬地方でヤマト朝廷による蝦夷討伐が始まるからです!
東北の古代史については、資料がほとんどなく、わずかな情報から紐解くしかありません。
そこで私は、東北のいちばん古い国造(くにのみやつこ)を調べました。
国造とは、その土地をまとめる長官のようなものです。
いちばん古いものですと、福島県までのものでした。
その福島県の国造を一覧にしてみました。
(ちなみに「染羽国造」は現在では存在を疑問視されています)
このなかで浮田国造だけが物部氏が強い、上毛野(群馬県)国出身なのです。
ここだけ異様です。
浮田国造の鹿我別(かがわけ)王とは何者でしょうか?
彼については以前の記事で軽く触れました。
彼は第10代崇神天皇の皇子である豊城入彦命から4代目に当たる人物で、浮田国造に就任後、神功皇后の三韓征伐に将軍として参加しています。
この経歴を見る限り、かなり由緒ある身分で、勇猛な戦士だったことがわかります。
そんな人物が突然、成務天皇の時代(1600年前?)に浮田(相馬市、南相馬市、新地町)の国造に就任します。
これは何を意味しているでしょうか?
私はこう結論づけます。
ヤマト朝廷は、いきなり福島県相馬地方を攻め込んだのです!
相馬地方の南には、他にも蝦夷地があります。
しかし彼らはそれらを素通りし、北の相馬地方へ向かいます。
www.machimura.maff.go.jp 画像引用元
つまり、蝦夷地である奥州の玄関口です。
そこをピンポイントで攻撃し、原住民と出雲族を制圧しました。
そうです。
ヤマト朝廷は相馬地方を拠点に、北へ南へと勢力を拡大して行ったのです!
これは完全に私の想像ですが、そうとしか思えません。
そこで次回は、鹿我別王と上毛野国について詳しく解き明かしていきたいと思います。
↓次回へ続きます。
参考文献
司東真雄著『東北の古代探訪』
平川南著『東北「海道」の古代史』
参考したサイト
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kimikobe1.htm
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