2015年に公開された『マッドマックス:怒りのデスロード』。
映画開始と同時に過激なアクションが展開され、そのアクションがエンディングまで延々と続くという異常な映画でした。
観客である私たちは、砂漠のなかの狂気の世界に放りこまれ、突然開始される激しいカーチェイスに巻き込まれます。
世界中の映画ファンを虜にしたこの作品は、狂った世界観と、見たこともないアクションがあれば、ストーリーなんていらないんだと映画の概念さえ覆しました。
しかし、真相は違ったようです。
町山智浩さんのラジオの情報によると、現在公開中の『マッドマックス:フュリオサ』と『怒りのデスロード』は元々は1本の作品だったようです。ジョージ・ミラー監督は新時代に相応しい、女性の英雄譚を生み出そうとしていました。そこへ、シルク・ド・ソレイユがアクションに参加することになりました。彼らが得意とするアクロバティックなアクションのアイディアが次々に浮かび、それを詰め込んだら、1本の映画では収まらず、2本に分けたそうです。
もしかすると最初の構想は『マッドマックス2』のように、前半1時間半くらいドラマパートで、最後の1時間は怒涛の暴走トラックアクションだったかもしれません。
つまり、『フュリオサ』と『デスロード』はふたつでひとつの映画なのです。私たちは映画の途中からみせられていました。それなら素直に『フュリオサ』から映画化すればいいのに、『デスロード』から映画化するのだから、やはりジョージ・ミラー監督はイカれています(笑)
画像引用 Furiosa: A Mad Max Saga Review – 'A rich, sprawling epic'
以下、ネタバレあり。
この物語は、『マッドマックス』というタイトルですが、「フュリオサ」という女性が主人公の物語です。私たちはすでにフュリオサというキャラクターは知っていますが、では彼女がどういった経緯でイモータン・ジョーに反旗を翻し、故郷である「緑の地」を目指すのか、全く知りませんでした。その謎がこの作品で解明されます。
しかし、この作品の困ったところは、前半部分のテンポが恐ろしく悪いのです。ジェットコースターのような『デスロード』を期待すると肩透かしにあいます。
ジョージ・ミラー監督は旧シリーズの時から、英雄の物語を創造するため、世界中の神話を研究したそうです。ルーカスが『スター・ウォーズ』を執筆するにあたり、ジョゼフ・キャンベルの神話学を物語に取り入れたようにです。
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では、英雄の条件とはいったい何でしょうか?
それは、「何度死んでも蘇る」ということです。
ここでの「死」というのは「精神的に」ということです。
フュリオサは住み慣れた土地から引き離され、母親を目の前で殺され、檻の中に閉じ込められます。そして、母を殺した奴らに囲まれて生きていきます。ここで彼女は、今までの自分を全否定されます。最低最悪な屈辱を味わいます。これは明らかに「死」をあらわします。凡人なら本当に命を絶ってもおかしくありません。
しかし、フュリオサは違います。
全くの別人として蘇り、復讐のために戦うのです。
蘇る瞬間を描くのために、この作品は「死」を丁寧に描きます。しかし、丁寧に描き過ぎて、とてももたもたしたテンポで物語が展開するのです。
『フュリオサ』を観るにあたってメル・ギブソン版の『マッドマックス』を観返しましたが、こちらも決してテンポがいい作品ではありません。マックスが味わう屈辱を描くことで、話のテンポが台無しになっています。
やはり『デスロード』は異常な作品だったのです。
全米では『フュリオサ』の興行成績が苦戦しているようですが、原因はここにあると思います。
前半がとにかくだるい!!
物語のテンポを犠牲にしてまで描いたフュリオサの「死」ですが、物語の中盤でやっとそれが活かされます。
フュリオサが「覚醒」するのです。
彼女は「復讐の鬼」と化するのです。
それまで抑圧されていた怒りが爆発し、物語も私たちもテンションが上がっていきます。
そこで展開されるマッドマックス恒例の「狂ったアクション」は、やはり笑ってしまうほど凄まじいです。
復讐の物語は、そのまま女性解放の物語へと繋がっていきます。
彼女が英雄になる最後の試練です。
そしてフュリオサ役のアニャ・テイラー=ジョイの立ち居振る舞いのかっこよさ!観ているだけで震えます。彼女を配役しただけでもこの作品の勝ちです。
この「死と再生」の物語の仕掛けがうまく機能してないのが残念ですが、それでも中盤からの展開は見る価値があります。
そして、この作品には大切な教訓があります。
死は全ての人に必ずやってきます。
しかし、英雄は必ず蘇るのです。
信念をつらぬき、決して諦めてはいけないのです。
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ありがとうございました。