前回は、大陸からやってきた吉弥侯部(きみこべ)氏が、蝦夷討伐を進めていく中で馬神である「駒形神」を各所に祀って行ったと解説しました。
しかし、これが順調に行ったかというと、そうではありません。
この朝廷率いる吉弥侯部氏の行為が、先住民たちの逆鱗に触れるのです。
東北には馬をあらわす「駒」がつく山が多くあります。これらは吉弥侯部氏が支配した土地の山の頂に駒形神を祀ったことに由来します。
駒形神は「水源の生産の神」をあらわすので、綺麗な水が湧き出て、川から海に流れる山の山頂は、駒形神を祀るにはぴったりの場所です。
しかし、この吉弥侯部氏の行為に、原住民たちは激しく怒ります。
そこはもともと原住民の神である龍神「アラハバキ」が宿る場所です。彼らが何万年もあがめていた大切な神様の場所です。
朝廷軍は先住民の神様を排除し、自分たちの神に変えたのです。
伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)がいた宮城県栗原市の山は「栗駒山」に変えられ、彼らは宝亀の乱を起こします。
先住民の英雄である阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)がいた岩手県奥州市周辺の山は「駒形山」に変えられ、彼らは朝廷軍に激しく抵抗します。
奥州市に一宮「駒形神社」が創建されたのも、彼らを強く押さえつけるためかもしれません。
他の山頂に駒形神を祀られ、その度に先住民による反乱が起きたと思います。
しかも吉弥侯部氏は大陸の血が色濃い人種です。かなり強引だったのではないでしょうか。
なぜ朝廷による蝦夷討伐が数百年もかかってしまったのでしょうか。
その理由は、この討伐の本質は宗教戦争だったからだと考えます。
自分たちの神様を殺されてしまった。この苦しみは、現在の私たちには想像できないでしょう。
先住民による反乱は激化し、朝廷軍も攻撃を強めていき、たくさんの犠牲者が出る。そんな悪循環のなか蝦夷討伐がなされて行ったと思います。
現在東北各所に存在する駒形神社ですが、その裏には悲しい歴史が存在しています。
それは支配者たちが封印してきた本当の歴史です。
神社に参拝しながら、殺された先住民の人たちに想いを馳せたいと思います。
では次回は、古代東北を支配した吉弥侯部氏のその後について考察していきます。
お楽しみに!
<参考文献>
司東真雄著『東北の古代探訪』
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ありがとうございます🫶