こんにちは、くましね薫です。
前回は、仁徳天皇の反乱によって応神王朝が途絶えたと解説しました。
今回は、現在の天皇陛下の直系の始祖である第26代「継体天皇」について解説していきます。
第16代仁徳天皇(オオササギ大君)の王朝は栄えますが、オオササギ王朝は親戚同士の抗争が激しく、近畿の臣下から不評を買い、年貢を納める人が減少していきます。
そして第24代仁賢天皇が崩御し、若くして即位した武烈天皇も8年で崩御したことが決定打となり、勢力が衰えます。
そのときに勢力を拡げていたのが、越前・「三国(さんこく)国造(福井県)」の「オホド大王」です。
彼は元々は出雲王家の富家の次男「彦太殿」でした。3世紀に出雲王国は滅んだのですが、王家の血筋は脈々と受け継がれていました。
同じころ北陸の蘇我家では男子に恵まれませんでした。なので親戚関係である富家から彦太殿を婿に入れます。
そうです。仁徳天皇と同じ始祖を持つ氏族です。
しかも彼は出雲王家の血筋です。越国は出雲と関係の深い氏族が多い地域です。
彼は周囲の国を取り込み、勢力を拡大します。
富家は三国港(福井県)を中心に貿易を盛んに行なっていました。
オホド大王はそれを利用し、航路を拡大していきます。
まず水害が多かった九頭竜川の河口を切り開き、合流点を拡大する工事を行います。この合流地点には現在「三國神社」があります。
貿易で北陸を発展させた後は、オホド大王は奈良県橿原市に別邸を建て、勾玉作りを開始します。
北陸には、出雲と親交の深い海部王朝の子孫の国が多くありました。オホド大王は彼らを取り込み、「蘇我王国」を築き上げます。
そして、琵琶湖と宇治川と淀川を小舟で結ぶ航路も開拓します。難波から大和川を通り、都へ入りました。
これにより、オホド大王の名は都に知れ渡り、年貢を納める者が続出します。
オオササギ王朝が衰退するのと相まって、オホド大王に権力は集まるようになり、「蘇我王朝」が成立しました。
このオホド大王は後に「継体天皇」と呼ばれ、現在の天皇の血筋へとつながります。
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会
このように、天皇の歴史は「万世一系」ではなく、何度も途切れています。「万世一系」とは、後世になって作られた物語なのです。
しかし、ここで気づいたことは、継体天皇は蘇我家に婿入りしましたが、元は出雲王家の血筋です。
出雲口伝によると、出雲王家は今から4000年前にインドから日本に渡来した民族で、現在もその血筋は受け継がれています。
ということは、血筋的には現在の皇族は出雲王家の血筋ということになります。
少なくても現在の天皇の歴史である皇紀2684年よりも長い可能性があります。
これが隠された歴史なのかもしれません。
そしてこの血筋を紐解くと、第10代崇神天皇が大物主の祟りに悩まされた理由がわかります。
次回はその理由について考察していきます。
※以上は私個人の考察です。
<参考文献>
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