前回は、古代の南相馬市にやってきた高国行方郡(茨城県行方市)の出雲族のタタラ集団について考察してきました。
約1600年前の古代の相馬地方は、相馬市にあたる場所に物部氏が、南相馬市には原住民と出雲族が住み分けていました。
この二つの勢力は対立していたと考えられます。
なぜかというと、この両者はそれぞれ長年の恨みがあるからです。
まずは出雲族です。
それは『日本書紀』に記載されています。
ヤマト朝廷が物部政権だったとき。垂仁天皇の母の弟のヤマト彦が亡くなり、古墳に埋葬されるときです。ヤマト彦の召使いであった出雲族の人たちが全員集められました。そして彼らは前方後円墳の方墳に首を出した状態で立ったまま埋められてしまいます。
彼らは数日間生きたまま、昼夜問わず泣き叫びながら息絶えていきました。
なぜ物部氏はこんな野蛮なことをしたのでしょうか。それは、物部氏のルーツが古代中国の秦にあるからです。彼らは秦の徐福が連れてきた一団です。古代中国は奴隷制社会で、召使いは動物のように扱われます。そして、死者を葬るとき鳴き声が上がれば上がるほど死者は慰められるという考えがありました。だから召使いである出雲族を生き埋めにしたのです。
まさに『キングダム』の世界観です。
同じようなことが、物部氏に制圧された出雲勢力の地で頻繁にあったことだと想像できます。
これを目の当たりにした出雲族の怒りは凄まじいものだったようです。
なので物部氏は人気がなく、この風習は成務天皇の時に無くなりました。
しかし、出雲族の恨みは消えないでしょう。このような恨みは伝承で語り継がれるはずです。
そして豊国物部氏です。
ヤマトを制圧し、三河国(愛知県)に移った豊国物部氏は、ヤマト朝廷に組み込まれた出雲軍に攻められ、毛野国(群馬県・栃木県)まで追いやられます。
出雲族の恨みは相当だったようです。
仲間だと思っていた朝廷に裏切られ、制圧した出雲族に攻められた豊国物部氏の屈辱は相当なものだったでしょう。
このように、お互い恨みを持った部族が、同じ地域に隣り合って住むことになりました。
それが、南相馬市原町区にある「桜井古墳」です。
全長74.5mの大きな古墳で、一般には豊国物部氏で浮田国造の鹿我別(かがわけ)王のお墓ではないかと言われています。
しかし、私は違うと考えています。
なぜなら、この古墳の形です。
この桜井古墳は、前方後方墳なのです!
古墳といったら仁徳陵のような前方後円墳がポピュラーですが、この桜井古墳は違います。
Googleマップによる空撮写真で見ると一目瞭然です。
円ではなく四角形になっています。
この形の古墳を方墳と呼び、主に出雲族が好んで造りました。
ではなぜ出雲族は方墳を作ったのか?
では地上からも方墳部分を見てみましょう。
この形ですが、何かに似てないでしょうか?
そうです。ピラミッドです!
上の四角錐の部分はないですが、土台は完全にピラミッドの形です!
出雲とピラミッド。
古代の出雲大社はピラミッドの内部と同じ構造というのは有名な話です。
出雲とピラミッドの関係を説明すると長くなるので省きますが、この桜井古墳は出雲族が作ったものだと私は考えています。
そして、南相馬市鹿島区にある「横手古墳群」の円墳こそが、豊国物部氏のお墓だと考えています。
つまり、古代南相馬市にいた出雲族が、相馬市にいた豊国物部氏に対抗して造ったのが桜井古墳です。
しかもかなりの大きさなので、かなりの対抗心があったのでしょう。牽制する意味で造ったと思われます。
当時の対立構造が窺える遺跡です。
この対立構造から、私が相馬市で生まれ育ってからずっと思っていたある疑問が浮かび上がりました。
それは、
「なぜ相馬市と南相馬市は仲が悪いのか?」
です。
それは古代から続く対立構造だったのです!
次回は、その長年の疑問を、この考察のまとめとして解明していきたいと思います!
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