こんにちは、くましね薫です。
前回は、応神天皇の父親は誰なのか解説しました。
日本の正史は、天皇陛下は万世一系であると主張していますが、歴史学者の間では疑問視する声が多くあります。
そして私が考察のベースにしている「出雲口伝」では、はっきりと否定しています。
そして今回は、前回解説した応神天皇からの流れを見ていきます。
しかし、出雲口伝の書である富士林雅樹氏著の『仁徳や若タケル大君』では、この血縁関係が否定されています。
まさかの応神天皇の血筋はすぐに途絶えてしまいます。
どうしてそうなったのでしょうか。
応神天皇が崩御後に即位したのは、応神天皇と宮主宅姫(みやぬしやかひめ)の間の子である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)でした。彼は「宇治大君」として即位します。
しかし、それに不満を持つ勢力がいました。それは、武内宿禰を祖先にもつ勢力です。その子孫のひとり、巨勢小柄宿禰(こせのおがらのすくね)の長子である「星川建彦(ほしかわたてひこ)」が先頭に立ち、反乱を起こします。
宇治大君が住む宇治の宮を、建彦率いる水軍が襲撃します。経験不足で用心をしていなかった宇治大君は、襲撃に対して何もできず逃げ出します。途中舟に乗って川を渡りますが、その舟の船頭が建彦の一味でした。船頭は舟を揺らし、宇治大君を川へ落とします。宇治大君は鎧を装着していたので、その重みで沈んでしまい、溺死してしまいます。
こうして、武内宿禰の子孫たちによる軍事クーデターは成功します。
そして、このクーデターの先頭に立った星川建彦こそが、仁徳天皇(オオサギ大君)なのです!
これにより、応神天皇の血筋は途絶えてしまいます。
次に続くのが、仁徳天皇の血筋である「オオサギ王朝」です。
この血筋は25代武烈天皇まで続きます。
そして第26代継体天皇です。
では次回は、継体天皇の成り立ちについて解説していきます。
↓次回
※以上は私個人の考察です。
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弥栄