前回は、上・下毛野国(群馬県・栃木県)に追いやられた豊国物部氏について解説しました。
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では、ヤマト朝廷に追いやられた豊国物部氏が、なぜ最初の蝦夷討伐を任され、そのリーダーである鹿我別(かがわけ)王は神功皇后とともに三韓征伐へ出兵したのでしょうか?
それは、鹿我別王は神功皇后と同じ、「天之日矛(アメノヒボコ)」を祖先に持つものだからです!
アメノヒボコとは一体誰でしょうか?
彼は朝鮮の「辰韓」という国の王子でしたが、王は彼が継承争いに巻き込まれるのを危惧し、彼を日本へ渡るように指示します。そして彼は約2000年前に一団を連れて出雲国へ渡来してきます。しかし、出雲国はアメノヒボコの移住を拒否。仕方なく但馬国へいきますが、そこでも拒否。そこで彼らがとった行動は、円山川中流の沼地を埋め立て工事を行い、平野にし、そこを居住地にします。
その地からヒボコ勢力を拡大していきます。
神功皇后の母である葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)はアメノヒボコの子孫です。
神功皇后は在位の時に、辰韓の王家の家来が「新羅」を建国します。当時はその国の領土や人民は王家の財産だという考えがありました。つまり神功皇后は、新羅はヤマト朝廷に年貢を納める義務があると考え、朝鮮半島を攻める計画を立てます。
その計画を喜んだのが、アメノヒボコと一緒に連れて来られた家来の子孫です。彼らは神功皇后の三韓征伐に参加していきます。
となると、なぜ鹿我別王が三韓征伐に参加したのか容易に想像できます。
そうです。鹿我別王もまた辰韓にルーツを持つ者だったと考えられます。
しかもなぜか彼の名前に「王」が付いています。
もしかすると、神功皇后と同じアメノヒボコの血筋かもしれません。
鹿我別王は成務天皇期に浮田(福島県相馬地方)の国造に就任していますが、神功皇后は仲哀天皇の皇后です。それだと時系列が合いません。
しかし、出雲口伝によると、なぜか神功皇后は成務天皇の后とされています。
そうなると、ピッタリとハマります。
つまり、神功皇后は同じ王家の血筋である鹿我別王を、蝦夷討伐の初陣に任せたのです。
ただ、そんな重要な人物がなぜ記紀で触れられてないのかは疑問です。出雲口伝でさえ記述がありません。
他の歴史の本でさえ彼に触れているものはほとんどありません。
なのでこれはあくまで私の推測です。間違っている可能性は大いにありますが、決して的外れな考察ではないと思っています。
ちなみに神功皇后は朝鮮の王家の子孫となりますが、厳密には違います。彼女はシュメール系フェニキア人の末裔です。これもまた後日解説します。
この流れで次回では、鹿我別王という謎の王に、さらに深掘りしていきたいと思います。
↓次回に続きます。
参考文献
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