ここまで、古代の聖地になぜ発電所が設置されるのかについて考察してきました。
そう考察していると、ではなぜ古代の聖地だった福島県浜通りはその後、衰退していったのかと疑問に思いました。
これは、福島県相馬市出身の私がずっと思っていた疑問でもあります。
なぜ私のふるさとは廃れているのか。
なぜ大きな産業がないのか。
大きなお店もなければ、娯楽もない。
私は小さい頃、そんな辺鄙な場所に生まれたことを呪っていました。
双葉郡に原発が誘致されたのも、あの地が過疎化しているからです。
そして今回、古代から福島県浜通りの歴史を紐解いていったとき、ある答えが出ました。
それは、稲作伝来がこの地を衰退させたのではないかということです。
この地方の最大の敵は、夏に吹く「やませ」です。やませとは夏季に山から吹く冷たい風です。冷害とも呼ばれます。
この地方はそのやませが頻繁に吹くのです。
日本海から吹く湿った風が、奥羽山脈と阿武隈高地を過ぎると、乾燥した冷たい風になります。その風が夏季に浜通りに吹き、農作物に多大な影響を与えます。
そうです。
当然ながら、作物は育ちません。
稲作が伝来し、律令制が整備されると、「米」が社会の中心になります。
米が「税」の代わりになりますから、稲作が盛んな地域が有利になります。
しかし浜通りは、たびたび起こる冷害の影響で、お米が取れなくなります。
その度に浜通りでは飢饉が起こり、少ないお米も中央集権に収めなければならず、食べる作物がなくなり、大規模な餓死者を出してしまうのです。
もしこれが縄文時代なら問題はありませんでした。
そもそも狩猟文化であり、山では獣を獲り、海や川では魚を捕り、木の実や野草を食していました。それだけで良かったのです。
それが律令国家が形成されていく中で「米」の税が出現したことで、この地は圧倒的に不利になってしまいました。
それを回避するため、浜通りと中通りの間の山間部では稲作よりも養蚕産業が発展します。
お米が不作だと人口も減っていきます。
人々は飢饉のたびに西へと逃げていったのではないでしょうか。
古代は海沿いの「海道」が重要な道だったのに、次第に中通りの奥州街道が栄えたのもそういった理由だと考えられます。
つまり、浜通りは蝦夷討伐でヤマト朝廷に制圧されたときに、衰退の運命が決まってしまったのです。
そして現在。
復興と叫ばれて久しいですが、浜通りの人口減少は激しく、目に見えて衰退していってます。
この流れは、古代にこの地にかけられた呪いなのかもしれません。
その呪いは、原発の処理が終わるまで続くでしょうし、その後も止まらないと思います。
この呪縛から少しでも早く解かれるように、私たちが正しい歴史を認識しなければいけないと思っています。
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