では、彼らはどのような道をたどって進軍したのでしょうか?
この時代の東北地方の資料というのは本当に少なく、わからないことだらけです。
なので、今回の考察は完全に私の想像になります。
そこから目的地である福島県の浜通りにある浮田国(相馬市、南相馬市、新地町)まで進軍します。
地図で見るとわかるとおり、かなりの距離です。
山間部にある上毛野国から海沿いの浮田国まで行くのに、二つの山脈を越えなければなりません。
しかもその途中には原住民や出雲勢力がいます。
とても大変です。
では、南下して関東の海沿いを進んでいくか。
しかし南関東は、豊国物部氏を北へ追いやった出雲勢力の陣地です。
どちらの方向に進んでも争いを生んでしまいます。
できれば無駄な争いは避けたいものです。
そんな状況で、彼らはどのルートを進軍したのか?
思い出してください。
豊国物部軍のリーダーの鹿我別(かがわけ)王は、蝦夷討伐後に神功皇后の三韓征伐に同行しています。神功皇后は、朝鮮へ渡るために海洋民を召集します。
つまり、鹿我別王たちも航海術をかわれて召集されたことになります。
彼らは公開技術に長けていたのです!
そして、彼らの本拠地である上毛野国の近くには、大きな河川があります。
それは、利根川です!
利根川は、新潟県から群馬県を通り、最後は茨城県と千葉県の県境を通り、太平洋へ出ます。
そうです。豊国物部軍は利根川を下り、太平洋へ出たのです!
それでは、彼らの行動を順を追って考察していきます。
彼らはまず先に、祭祀を司るものを利根川から下らせ、利根川の河口付近に「経津主神」を祀らせます。現在の鹿島神宮、香取神宮のあたりです。
経津主神を祀ることで、利根川に宿る龍神を鎮め、流れを穏やかにさせるためです。
祭祀が終わると、いよいよ軍隊が川を降ります。
利根川は日本最大級の河川です。
かなりの人数と武器を従え、川を下ったと考えられます。
川を下ると、そこから浮田国まで北上するだけです。
鹿島灘で陣形を整え、北へ進みます。
豊国物部軍は数日で浮田国の海岸に着きました。
浮田国に住む原住民と出雲勢力は、豊国物部軍の軍船の多さに驚いたでしょう。
その数に圧倒され、すぐに服従したものもいたでしょうが、一部は武力で抵抗したと思います。
どのような争いが起きたかは想像するしかありませんが、鹿我別王がその後の三韓征伐に同行するという事実を鑑みると、豊国物部軍の圧勝だったと見れます。
それを想像すると、制圧された原住民と出雲勢力に対して胸が痛くなります。
しかし、相馬市出身の私の中にも豊国物部氏の血が流れていると思うと複雑です。
そんなことを思いながら、古代のご先祖さまに感謝と祈りを捧げるばかりです。
というわけで、豊国物部軍による浮田国への進軍を考察しましたが、ではなぜ豊国物部氏は相馬地方を「浮田」と名付けたのか。
次回、考察していきます。
次回へ続きます。
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