私は福島県相馬市で生まれ育ち、子供の頃から不思議に思っていたこと。
それは大人たちがよく言う「相馬市と南相馬市(原町市)は仲が悪い」というものです。(原町市とは南相馬市原町区の合併前の自治体名)
その内容は、「原町に野馬追取られた」だの、「原町ばかり栄えるんだ」だの、震災後は「南相馬ばかり賠償金もらえてずるい」などです。
こうみると、仲が悪いのではなく、単なる相馬市民の嫉妬のように思えます。
しかし、この「仲が悪い」と思ってしまう本質は、実はすごく根が深いのです。
今回私が考察した、「豊国物部氏による相馬地方への蝦夷討伐」。
この仲が悪いと思ってしまう原因は、約1600年前の古代史までさかのぼるのです。
この記事では、今まで展開してきた考察のまとめをしていきたいと思います。
事の発端は、約2100年前の九州に上陸した徐福の一団です。彼らは現地の人と交わり、「物部氏」として九州に一大勢力を築きます。物部とは軍人や武器を管理するものを意味します。彼らは約1800年前に、一度ヤマトを攻め込み支配しますが、人々の支持を得られず九州へ退散します。なぜなら、ヤマト国には出雲族の女性祭祀王ヒミコがいたからです。
人々の支持を得るには女性祭祀王が必要と痛感した物部氏は、豊国の月神の祭祀をする阿多津姫の協力を得て、約1700年前に豊国と物部氏の連合軍で再びヤマトを攻め、ヤマトを完全に支配します。物部王朝の誕生です。
しかし物部王朝は、力をつけた豊国物部氏を恐れ、出雲軍を使い、彼らを毛野国(群馬県・栃木県)へ追いやります。
そして豊国物部氏を追い出した出雲族は、関東に出雲王国を築きます。
豊国物部氏は、王朝成立の立役者のはずが、たちまち朝敵になる屈辱を味わいました。
しかし、成務天皇の時代。皇后の神功皇后が豊国物部氏に蝦夷討伐を任命します。なぜなら、豊国物部氏のリーダーである鹿我別(かがわけ)王は、神功皇后と同じ「アメノヒボコ」を先祖に持つからです。
そして彼らは約1600年前に、上毛野国(群馬県)から利根川を下り、海を北上し、相馬地方へ上陸、占拠します。
これが蝦夷討伐の始まりです。
豊国物部氏は、自身の故郷の地名である「宇田」にちなみ、相馬地方を「浮田(うた)」と名付けます。
彼らは蝦夷討伐の前線である相馬市に陣地を置きます。生き残った先住民と出雲族を南相馬市に住まわせます。
そして、物部氏の武器の神様である「押雄神」と「御刀神」を、そしてたびたび氾濫する真野川・新田川に「八大竜王」を祀ります。
出雲の神である「手長明神」も「住吉の神」に変えられます。
しかし、事態は急変します。
朝廷の命令で、高国行方郡(茨城県行方市)にいた出雲族の製鉄集団が、南相馬市に移住してくるのです。南相馬市が「行方(なめかた)郡」と呼ばれていたのはそのためです。
豊国物部氏と出雲族は対立し合いました。その証拠が南相馬市にある巨大な桜井古墳です。桜井古墳は出雲族が物部氏を牽制するために作ったと私は考えています。
これらの考察は私の考えた事であり、状況証拠だけなので100%事実だとは思っていません。
しかし、おおよそこのようなことあっただろうと推測しています。
ここで結論です。
相馬市と南相馬市が仲が悪いと言われる原因は、1600年前に起きた豊国物部氏と出雲族の対立から始まります。
そのカルマが、私たち相馬市民と南相馬市民の潜在意識を刺激し、動かすのです。
だからといって、現在の相馬市民を物部氏、南相馬市民を出雲族と分けるのはナンセンスです。
あくまで、私たちの潜在意識を動かす「見えない力」の正体を解き明かしただけです。
私たちの体には、さまざまな人の血が入り混じっています。相馬市民にも出雲の血が、南相馬市民にも物部氏の血が入っているでしょう。
ましてや相馬地方は、天明の飢饉以降に大量の移民を受け入れた地域です。いろんな部族の血が流れています。
相馬地方では、蝦夷討伐のことはほとんど語られません。しかも相馬氏の支配が長いぶん、そちらのアイデンティティーを重視しがちです。
なので、古代に起きたこれらのことを理解し、無駄な争いをせず、仲良くしていってほしいのです。
このブログがそのお役に立てることを願っております。
〈参考文献〉
『崇神天皇の崩年はいつか』小沢一雅
http://www.jinbun-db.com/journal/pdf/vol_13_113-120.pdf
『出雲と蘇我王朝』斎木雲州
『出雲王国とヤマト政権』富士林雅樹
『仁徳や若タケル大君』富士林雅樹
『もう隠せない 真実の歴史 世界から消された謎の日本史』武内一忠
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ありがとうございました😄