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前回は、福島県新地町の「子眉嶺神社」に伝わる「馬伝説」を解読し、相馬地方に最初に馬信仰を持って来たのは「豊国物部氏」であると考察しました。
その豊国物部氏のリーダーである「鹿我別(かがわけ)王」は、その後東北へ広がる「吉弥候部(きみこべ)氏」の始祖です。
吉弥侯部は古代東北の文献に頻繁に出てくる姓です。つまり、豊国物部氏の子孫が初期の蝦夷討伐の中心だったとみることが出来ます。
司東真雄先生の『東北の古代探訪』によりますと、吉弥侯部氏は毛野国(群馬県と栃木県)からきた物部氏だけを指すのではないと指摘しています。吉弥侯部氏を名乗るものの中には朝鮮からの渡来人も含まれているということです。
私は以前、鹿我別王は神功皇后と同じ「天之日矛(アメノヒボコ)」を祖先にもつ朝鮮系の一族だと考察しました。
そして鹿我別王は神功皇后とともに三韓征伐に参加しています。三韓征伐でヤマト朝廷は朝鮮に勝利し、人質として朝鮮の人々を日本へ連れて来ています。
ということは吉弥侯部氏のなかには、その時に日本へ連れてこられた人々がいたかもしれません。もしくは日本が朝鮮を征伐したことで、朝鮮との交流が頻繁に行われることになり、多くの人が渡来してきたのかもしれません。
ここから豊国物部氏と朝鮮や大陸との関係の深さが窺えます。
そんな吉弥侯部氏は、大陸から「馬信仰」を日本へ持ってきます。
実は古代日本には「馬」は存在しませんでした。平野が少なく、国土の7割が山岳地帯の日本では、馬で移動するのは不便です。
それよりも古代の日本人は海洋民族なため、海沿いを舟で移動していました。そのため、水に宿る「龍神」を彼ら信仰していました。
しかし、彼らはそこに馬の神「駒形神」を持ってきたのです。
古代イスラエルから大陸を渡ってきた彼らにとっては、馬とは聖なる動物です。その馬はやがて「水源の生産の神」となっていきます。
まず彼らは群馬県の赤城山の側に駒形神を祀り、その山は「駒ヶ岳」と呼ばれました。
栃木県小山市には生駒神社を創建します。
蝦夷討伐のはじめの地である福島県新地町に、子眉嶺神社を創建した吉弥侯部氏は、北へ進撃しながら、東北の各地に駒形神を祀っていきます。
主な神社は、
仙台市泉区の蒼前神社。
これはほんの一部で、東北には数えきれないほど駒形神を祀る神社があります。
なぜこんなにも駒形神を祀らなければいけなかったのでしょうか。
それは、信仰を奪われた先住民たちの反乱を抑えるためです。
ヤマト朝廷「駒形神」と東北先住民「龍神アラハバキ」による宗教戦争が勃発するのです。
次回につづきます!
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ありがとうございました🫶