前回までは、豊国物部氏による相馬地方への蝦夷討伐の考察をしてきました。
では、その考察に入る発端となった、南相馬市の真野川・新田川の川沿いに「龍神」が祀られているのはなぜなのかについて、遠回りしてきましたが考察していきたいと思います。
現在南相馬市にある「綿津見神社」の多くは、江戸時代末までは「八竜神」「八竜権現」という名前でした。
つまり、江戸時代までは龍神信仰が盛んに行われていた。
しかも、綿津見神社は「安曇氏」の祖神であり、古代の南相馬市にも安曇氏がきていたのではないかと考えました。
しかし、相馬地方の綿津見神社は中世に創建されたものがほとんどで、学会では否定されています。
そもそも相馬地方に言い伝えでは、八竜神は「雨の神様」でもあり、まだ農業が発展してない古代の東北地方で祀られるのはおかしいのです。
そこでまず、南相馬市と同じ、「八竜神」から「綿津見神社」になった神社を調べてみることにしました。
検索にヒットしたのが、福岡県福岡市東区三苫にある「綿津見神社」です。
神功皇后が三韓征伐のとき暴風雨に遭遇し、多くの船が沈没します。そのとき皇后は3枚の苫(菅や茅で編んだ、船や小屋を覆うもの)を海に投げ海龍神「八大竜王」に祈り、「この苫が流れ着いた場所に海神を祀る社を建てる」と宣言します。すると暴風雨が止み、三韓征伐に成功します。皇后は帰還のとき、投げ入れた苫を発見し、そこに社を建て、三苫という地名になった、という伝承です。
なんとここでも神功皇后が登場してきます。
相馬地方を制圧した豊国物部軍の将軍である鹿我別(かがわけ)王は、蝦夷討伐後に神功皇后の三韓征伐に参加しています。
なので福岡市の綿津見神社にも密接に関係があると思われます。
ここからは私の想像ですが、豊国物部氏が相馬地方を統治したとき、原住民と出雲勢力たちの信仰も奪ったと考えられます。
これが征服支配の基本です。その中に、彼らの龍神信仰も含まれます。
しかし、ここで大変なことが起きます。真野川・新田川の氾濫です。
2019年の台風19号の時にもこの二つの川は氾濫を起こしています。
古代の南相馬でも同じことが起こったことは容易に想像できます。
台風がこの地を襲い、川が氾濫してしまった。
そこで物部氏たちは、これを原住民たちの祟りだとし、その怒りをおさめるために、自分たちの「龍神」を祀ったのではないでしょうか。
それが、福岡市と同じ「八大竜王」です。
神功皇后が暴風雨の時に「八大竜王」に祈ったように、豊国物部氏も祈ったのでしょう。
彼らもまた龍神を祀ります。
ja.wikipedia.org画像引用元
彼らは「八大竜王=レヴィアタン」を真野川・新田川沿いに祀り、川の氾濫を鎮めようとしました。
その龍神信仰が、やがて農業が盛んになるにつれて「雨の神様」となって拡がり、江戸時代まで続いたのではないかと私は結論します。
しかし、実はまだ、八竜神が南相馬市に集中している理由がもう一つあります。
それは、このあと北関東にいた出雲勢力が、南相馬市に移住してくるのです。
↓次回へ続きます。
参考文献
参考にした動画
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