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子眉嶺神社の「馬伝説」の暗号を解読する!

※この画像はイメージです

 

前回は、福島県の相馬地方に伝わる「馬信仰」は相馬氏がこの地に持って来たのではなく、それ以前にこの地にあったと解説しました。

kumashine369.hatenablog.com

 

そこで今回は、相馬氏以前の馬信仰が行われていた福島県新地町の「子眉嶺(こびみね)神社」の「馬伝説」を紐解いていきたいと思います。

kobimine.halfmoon.jp

その馬伝説は前回の記事で紹介したのですが、おさらい兼ねてもう一度要約したものを載せます。

 

伊勢のお姫様が、唐津から来た名馬「今帝馬」に近づくと、馬の子を身ごもってしまいました。それに激怒した大臣はその馬を殺そうとしますが、馬に食い殺されてしまいます。姫は馬の子を身ごもった罪で舟で流され、新地町に流れ着きます。そしてその地の豪族と一緒に暮らし、しばらくして赤子を産みます。しかしその赤子が馬の顔そっくりで、その赤子を見た姫はショックで亡くなってしまいます。

その前に、馬は姫を追い新地町へ来て、姫と出会い、伊勢の地へ戻っていった。その地を駒返りの嶺と呼び、そこから現在の「駒ヶ嶺」という地名となった。

 

これが子眉嶺神社に伝わる伝承です。

この伝承は何を伝えているのでしょうか。ひとつずつみていきましょう。

 

まず、「今帝馬」は佐賀県唐津市から来たという設定です。

古代の佐賀県といえば、秦の始皇帝の使者である「徐福」が上陸した地です。出雲口伝によりますと、徐福が佐賀から上陸した際に名乗った名前がニギハヤヒです。ニギハヤヒとは、古代豪族物部氏」の始祖に当たります。

つまり「今帝馬」とは物部氏のことになります。

 

そして伊勢のお姫様です。

このお姫様は、子眉嶺神社のご祭神である豊受大神ではないかと私は考えています。

豊受大神とは「月の女神」です。伊勢神宮の外宮に祀られています。その月の女神の日本での起源はどこでしょうか。

出雲口伝によると、月の女神の発祥は大分県にある宇佐神宮です。

現在は応神天皇を祀る八幡神社ですが、元は月の女神を祀る神社でした。

その地は宇佐家が支配していた「豊王国」で、宇佐神宮の姫巫女が豊玉姫です。

 

物部氏は1回目のヤマト支配の際、出雲族の祭祀王「百襲姫(モモソヒメ)」の人気に勝てず、不安定な政治から倭国大乱を引き起こし、ヤマトを撤退してしまいます。

 

その痛い経験から、物部氏月神の巫女である豊玉姫の力を借り、「豊国物部連合」を組み、ヤマトを再び進撃し、ヤマトに物部王朝を築きます。

kumashine369.hatenablog.com

 

そうです。この伝承は、私が以前から考察している、

「豊国物部氏による相馬地方への蝦夷討伐」

を暗示しているのです!

 

↓詳細はこちらをお読みください。

kumashine369.hatenablog.com

kumashine369.hatenablog.com

kumashine369.hatenablog.com

 

つまり、相馬地方に最初に馬信仰を伝えたのは豊国物部氏ということになります!

 

イスラエルから大陸を東へ進み、騎馬民族となった彼らは、徐福と一緒に日本に上陸し、馬信仰を布教して行ったのです。

その東北の最初の地点が新地町の子眉嶺神社なのです!

 

ちなみに先ほどの馬伝説ですが、馬そっくりに生まれた赤子のその後どうなったか気になりますよね。

実はその後の物語を思わせる伝承が子眉嶺神社のWikipediaに記載されています。

 

国津神夷子別(えびすわけ)之神という神がいた。夷子別之神は長い顔を持ち、体の大きくて力も強く、心も猛々しい神であった。そのため神々は夷子別之神を畏れ従ったという。ところが、夷子別之神は姿が醜く陰部が大きかったために多くの女神たちからは従われなかったが、美しくて体も大きく、体に白い毛が生えていたため「白媛神」と呼ばれた女神だけが夷子別之神に従った。夷子別之神は大いに喜び、白媛神を妃として娶り当地に住んだ。夷子別之神と白媛神の夫婦神が宮居を構えた場所は「小前嶺」といい、現在は「子眉嶺」と呼ぶのだと伝わる。夷子別之神と白媛神は小前嶺の地で馬を飼い、また馬が病にかかったときは治療をし、国中の神々に馬の飼育法を教えたという。土地の人々は社を建てて二神を丁重に祀ったことが、子眉嶺神社の創建だと伝わる。”

ja.wikipedia.org

 

私はこの夷子別之神が、馬そっくりな赤子のその後だと考えています。そして伝承に登場する「白媛神」は、伊勢神宮の外宮である「豊受大神宮」に奉納されている「白い神馬」の擬人化ではないでしょうか。

www.isejingu.or.jp

そしてなぜ「えびすわけ」と呼ばれているのかというと、えびすはヒルコ」と同一神です。ヒルコはイザナギイザナミの最初の子どもであるにもかかわらず、手足がないため川に流されてしまいます。これは、えびすわけが母親と容姿が違うために「えびす」と名付けられたのではないかと考えられます。

もうひとつは、えびすは大国主の息子の事代主とも同一視され、そのことから「王の子」という意味で「えびす」と名付けられたのではないでしょうか。

 

もしかすると、この夷子別之神は、相馬地方の蝦夷討伐を指揮した鹿我別(かがわけ)王の息子かもしれません。

kumashine369.hatenablog.com

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以上のことから、相馬地方にいちばん最初に馬信仰を伝えたのが、1600年前に相馬地方を治めた「豊国物部氏」であると私は考えました。

これはあくまでも私個人の考察です。

 

そしてこの豊国物部氏は、名前を「吉弥候部(きみこべ)氏」と変えて、東北中へ馬信仰を布教していくのです。

 

次回へ続きます。

 

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<参考文献>

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