前回は上毛野国(群馬県)からどのようなルートで相馬地方へ進軍したかを考察していきました。
それにより、ヤマト朝廷による蝦夷討伐が開始されたのです。
侵略者が征服した土地にまずすること。それは土地に名前を奪うことです。
なので古代の相馬地方の名前である「浮田国」も、豊国物部氏がつけたものです。
では、この「浮田」の由来はなんでしょうか?
その答えは、宝田寿男氏が記した『吉弥侯部姓斑目氏の系譜』という論文にあります。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/kimikobe1.htm
宝田氏によると、群馬県富岡市にある貫前神社の神官である物部公と浮田国造(鹿我別(かがわけ)王)は同族であるそうです。
その貫前神社の北方近隣に「宇田」という地名があり、そこが「浮田」の由来だそうです。
鹿我別王は、制圧した土地を、自分の故郷にゆかりのある地名に変えたのだと思います。
もしかすると「浮田」は「うた」と呼ぶのかもしれません。
相馬地方はその後、「宇多郡」「宇多郷」と呼ばれます。
そして、「宇多川」が流れることから、「浮田」は「うた」と呼ぶと考えられます。
では、なぜ彼らは「浮田」という「浮」の文字を使ったのでしょうか?
私は「浮」の字を見て、思わず「俘囚(ふしゅう)」という言葉を思い浮かびました。
「俘囚」とは、蝦夷討伐の際に朝廷側についた蝦夷の民のことを言います。
俘囚の「俘」と、浮田の「浮」は右側のつくりが一緒です。
「孚」は「まこと」と読み、信じるや授ける、覆うという意味があります。
つまり、朝廷に服従し身を授ける蝦夷の民という意味で、「孚」がつく漢字が地名に使われたのでしょう。
そして、鹿我別王のゆかりの地に当てて「浮田」という地名になったのだと思います。(浮田と俘囚も字が似てますし)
では次回は、豊国物部氏が相馬地方に創建した神社を紹介していきます。
↓次回へ続きます。
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