前回は、石川県の志賀町から能登半島は古代の聖地であると考察しました。
その考察途中で「志賀(しか)島」という島を紹介しました。
海洋民である「安曇氏」の発祥地であり、安曇氏の祖先である「綿津見三神」を祀る志賀海神社があります。この神社は全国の綿津見神社の総本宮です。
出雲口伝によると、安曇氏は「海部氏」から派生した一族で、「綿津見神」とは徐福が秦から出雲国へ連れてきた子供達のことだそうです。
安曇族は中国と盛んに交流し、当時最新の稲作技術を取り入れ、全国に普及させました。特に彼らは棚田による稲作を取り入れます。山からの豊穣な水を稲作に使うためです。
長野県に安曇という地名が多かったり、滋賀県の安曇(あど)町や安曇川などは安曇氏が移住した場所だそうです。
そして私が住む福島県相馬市のお隣、南相馬市の鹿島区と原町区には、多くの綿津見神社が存在します。
岩崎敏夫著『本邦小祠の研究』より。▲が海神を祀る神社
もしかすると、古代の南相馬市には海洋民安曇氏が来ていたのではないか?
彼らが移住した場所に、先祖である綿津見神を祀ったのではないか。
そう考える人も多いそうです。
実際、綿津見神社は南相馬市の真野川、新田川沿いに集中しています。
これは古代の海洋民族が、航海のために必要な腐らない真水を求め、川を上った形跡にとれます。
そして新田川の上流である飯館村の山間部にもちゃんと綿津見神社が存在し、その付近には湧水まであるのです。
これは安曇氏が来ていた証拠ではないでしょうか!
しかし、学会では福島県に安曇氏が来ていたことは否定されています。
福島県の綿津見神社の創建は、中世に建てられたのがほとんどだそうで、古代安曇氏との関連はないそうです。
納得がいかない私は、南相馬市の綿津見神社についての歴史を調べました。
すると、そこには驚きの事実が記載されていました。
南相馬市にあるほぼ全ての綿津見神社は、江戸時代幕末まで「八竜神」「八竜権現」という社名だったのです!
つまり、南相馬市では竜神信仰、「アラハバキ信仰」が江戸時代幕末まで行われていたのです!
では、なぜ南相馬市では竜神信仰が行われていたのか、次回考察していきます。
参考文献
よく読まれている記事
ありがとうございました😄