前回は、南相馬市に多く存在する「綿津見神社」は、江戸幕末までは「八竜神」であったことが判明したことを記述しました。
では、なぜ南相馬市の真野川、新田川沿いに集中して八竜神が建立されているのでしょうか?
この説明にはかなり遠回りをしなければなりません。あらかじめご了承ください。
そのヒントになるのが、真野川上流の上栃窪にある「冠嶺(さかみね)神社」に伝わる伝承です。
この神社のご祭神は、
天津彦火邇邇芸(ニニギ)命
天津彦火々出見(ホホデミ)命
闇淤加美(クラオカミ)神
です。
伝承によれば、景行天皇期にヤマトタケルは奥州東征の際にこの地にやって来たとき、猿田彦が降臨し、17日間祭祀を行い、邇邇芸命を勧請したというのです。
そのとき降り立った場所が、真野川のさらに上流にある「立石」と呼ばれる巨大な岩で、現在も残っています。
↑猿田彦が降臨した「立石」
画像引用元-たんぽぽろぐ-
この「立石」に関して、岩崎敏夫先生の『本邦小祠の研究』には、
(名称)さえのかみ、どうそじん、どうろくじん。幸神、塞神、岐神。
と記載されています!
猿田彦にサイノカミ。
これはまさに出雲族の痕跡です!
↓出雲族についての詳細記事
もしかすると、出雲王家の分家である登美磯城家の大彦たちが、東北へ追いやられた際に、一部がこの地に住みつき、古代からある巨石信仰と融合し、サイノカミ信仰を根付かせたのではないでしょうか。
景行天皇の時代(1700年前?)のヤマト朝廷はまだ出雲勢力が衰えてなかった時代です。
出雲の神様を降臨させて、この伝説を作ったのでしょう。
私はヤマトタケルの奥州東征を疑っているひとりです。
出雲口伝によると、そもそもヤマトタケルは存在せず、当時さまざまな場所で起きた朝廷による征伐を、ヤマトタケルという一人の英雄談にまとめたものだそうです。
その時に起きた東征も、尾張にいた豊族を北へ追い出すものなので、東北への影響はなく、当時の南相馬市は原住民と出雲族が仲良く融合して暮らしていたと私は考えています。
この地で出雲族は平和に暮らしていた。
そして真野川、新田川では「龍蛇神信仰」であるアラハバキ信仰が行われていた。
そう私は結論づけます。
しかし、平和はそう長くは続きませんでした。
次の成務天皇の時代。ここ相馬市・南相馬市に、ヤマト朝廷の軍隊がやってきます。
そうです。蝦夷討伐です!
日本で最初の蝦夷討伐の場所は、福島県の相馬地方だったのです!
↓次回へ続きます!
参考文献
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ありがとうございました😄