前回は、蝦夷討伐の初陣を切り、その後神功皇后の三韓征伐に参加した鹿我別(かがわけ)王は、神功皇后と同じ「アメノヒボコ」と同じ辰韓の王家の血筋だと考察しました。
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今回はその鹿我別王をさらに深掘りし、なぜ彼が歴史の表舞台から消えたかを探っていきます。
私が気になったのは、鹿我別王という名前です。以前にも、「鹿」とは「神」の意味があると考察しましたが、鹿我別王の名前にある「鹿」も同じ意味ではないでしょうか。
そして鹿我別王は、「加賀別王」とも表記されることがあります。
加賀。これは現在の石川県南部を指す「加賀国」のことでしょうか。
そして「別」という字。これが応神天皇の名前「誉田別(ほんだわけ)尊」と同じ意味ならどうでしょう。
応神天皇の名前は「品陀和氣(ほんだわけ)命」とも書きます。
「別」とは「和氣」とも書き、この和氣は「平定する」という意味になります。
つまり「加賀別王」とは「加賀国を平定した王」という意味になるのです!
加賀国はじめ北陸には、出雲王家の分家である磯城登美家の「大彦」が築いた一大王国があった場所です。
この私の考察が正しければ、1700年前に鹿我別王率いる物部軍が侵攻し、ヤマト朝廷が平定したことになります。
ただ、これらの出来事は歴史書には一切書かれてないので断言できません。
しかし、彼がなぜ加賀別王と呼ばれるのか、これで説明がつきます。
そして、加賀別王は「巫別(かんなぎわけ)」とも記述されます。
なぜ神職を意味する「巫」の字が当てられているのでしょうか?
そのヒントは、宮城県亘理町にある「鹿島天足和気神社」にあります。
この神社の創建は111年ととても古く、ヤマトタケル東征の時に勧請されたそうです。
その神社を創建したのが、鹿我別王の孫である「三品掃部輔物部朝臣正隆」です!
ここで存在が疑われるヤマトタケルと合わせると時系列がめちゃくちゃになるので無視します。
つまり、鹿我別王はなぜ「巫別」という名で記載されるかというと、神職でもあったからです!
そうなると、なぜ石川県に「鹿島」という地名や、「鹿島神社」が多いか説明できます。
鹿我別王は朝廷の命令により、出雲勢力の強い加賀国を侵攻し、平定した。そして、出雲の神様を封印するために、鹿島神社を勧請した。
だから彼の名前に「鹿」がつくのです。
私はそう考えます!
そして、「加賀」という地名。濁音はその言葉の力を封じるためというので、濁音を消します。
なので「かか」が本来の地名です。
ということは、
かか = 神神
となります!
古代の聖地は能登半島だけではありません!北陸全体が古代の聖地です!
というか、日本自体が元々は「神の国」なわけで、全ての地域に当てはまることだと思います。
そして、日本神話や神社が詳しい人なら、ここまで読んで違和感に気づくと思います。
それは、
ということです。
鹿島神宮に祀られている「武甕槌(タケミカヅチ)命」は藤原氏の神様です。
なのになぜ物部氏が創建しているのでしょうか。
ここで古代史の触れてはいけないタブーにぶつかります。
それを藤原(中臣)氏が奪ったのです!
次回このタブーを深掘りしていきます!
↓次回へ続きます。
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