前回は吉弥侯部(きみこべ)氏が古代東北に祀った馬神「駒形神」と、先住民の龍神「アラハバキ」の対立について解説してきました。
では蝦夷討伐の先陣を斬った吉弥侯部氏は、どれほど勢力を拡大したのでしょうか。
『日本後紀』という840年に編纂された資料には、古代東北の村々の支配者の名前が記されています。記録されているのは全部で80人ですが、そのうち56人が吉弥侯部氏です。
吉弥侯部氏は古代東北に圧倒的な勢力を拡大しました。
しかし、前回解説したように、吉弥侯部氏による強引な駒形神の勧請は、先住民の怒りをかい反乱を引き起こします。
720年には吉弥侯部族の将軍・上毛野広人が、先住民の反乱により殺害されます。
記録にはないものの、蝦夷討伐がなかなか進まなかった背景をみますと、先住民による反乱はかなりの件数だったのではないかと思います。
その証拠が797年に編纂された『続日本紀』以降の文献で確認できます。これらの文献には「俘囚(ふしゅう)」について記載されています。俘囚とは、朝廷に属することになった先住民のことです。要は朝廷に投降した先住民を指します。
その中に、なぜか「吉弥侯部氏」の名前が見受けられます。そしてその者たちは西日本各地に強制送還されています。
なぜこのようなことが起こったかというと、吉弥侯部氏たちは村々の長となったけれども、農耕技術が劣っていて農作物の収穫がうまくいかず、中央への租調ができず、先住民に不満を抱かれ反乱を起こされていたからです。
そんな吉弥侯部氏たちの姿に剛を煮やした朝廷は、彼らを強制送還したのでしょう。
奇しくも797年に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されます。この時点で朝廷軍が毛野国吉弥侯部氏から坂上田村麻呂に交代されたことが見れます。
西日本へ強制送還された吉弥侯部氏のその後の行方はわかりません。吉弥侯部さんをネットで調べると、現在わずか10人しかいないのを見ると、みな姓を変えてしまったのだと思われます。
当時は藤原氏が台頭していた時期ですので、豊国物部氏は次第に表舞台から消えてしまいます。
その後登場するのは後九年の役で活躍しますが、それが最後になります。
しかし、吉弥侯部氏が姿を消しても駒形神信仰は脈々と受け継がれていきます。
そして、時代は過ぎて戦国時代。
東北の駒形神信仰の総本山である「子眉嶺(こびみね)神社」は、伊達政宗も狙いを定めてきます。
次回は、伊達政宗の相馬地方への奇襲と子眉嶺神社との関係について解説します。
お楽しみに。
<参考文献>
司東真雄著『東北の古代探訪』
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ありがとうございました🫶