私は福島県相馬市で生まれ育ちましたが、ずっと相馬市が大嫌いでした。
ど田舎で、閉鎖的で、排他的で、本当に最低な場所です。
私だけでなく、他の相馬人も「郷土愛」が薄いように感じます。
相馬市民として誇りを持っている人なんていないし、みんな都会な仙台市に憧れを持っていました。
なかなか高速道路が開通せず、「浜通りは日本のチベット」だと自虐する始末です。
相馬地方の有名なお祭り「相馬野馬追」も、結局一部の人たちが粋がっているだけだと冷めた気持ちで見ていました。
震災以降は、私も他の相馬市民も、相馬市を好きになろうとしました。しかし私にとっては、大嫌いな土地のままです。
大嫌いだからこそ、客観的に歴史を調べられるのかもしれません。
私の中にある「相馬嫌い」の原因はなんだろうか?
この考えは、私の心の奥底にずっと潜んでいました。
そして去年、自分の家系を調べました。
すると驚いたことに、私の父方の祖母と、母方の祖母の家系は、江戸時代後期に加賀藩からの移民だということがわかります。
江戸時代後期に東日本を襲った度重なる飢饉により、相馬中村藩は人口の3分の1を失います。
その打開策として、北陸にある加賀藩からの移民を受け入れます。
当時加賀藩は「加賀百万石」と言われるほど栄えてましたが、逆に人口が増えすぎて、生まれたばかりの赤子の首をひねるという悲劇を生む状況だったそうです。
それを打開するために、お互いWin-Winな結論が、加賀移民政策です。
江戸時代後期、相馬地方には大量の加賀移民が流入したのです。
(加賀移民は、相馬地方の他に北関東にも移住しています)
周囲の人に聞くと、「先祖は加賀から来た」という人がかなりいます。
つまり、今の相馬地方民は加賀から来た移民の子孫がたくさんいるということです。
相馬地方にいる多くの人の血筋は、相馬地方にきてまだ200年足らずということです。
もしかすると、相馬市民の「郷土愛の薄さ」の原因はこれかもしれません。
相馬中村藩は700年の歴史があります。
その歴史と庶民とのギャップです。
ちなみに私の母方の祖父の家系は仙台藩士です。つまり相馬中村藩とは敵同士です。相馬が嫌いなはずです。
私の中には純粋な相馬人の血脈はひとつしかないのです。
そうなると、本当の相馬人はいるのかと疑問に思います。
たぶん、そんな人はいないでしょう。
この話は、「本当の日本人はいるのか」という話にもなります。
4000年前から大量の渡来人が日本に移住してきます。
そんな疑問を持つことは不毛なのです。
今回、加賀移民について触れましたが、この出来事を調べると、ある疑問が浮かび上がります。
江戸時代に、これほど大量の移民を移動させるのは可能なのか、と。
次回からは、このことについて深掘りしていきたいと思います。
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