<この記事にはネタバレが含まれています>
現在、『ジョーカー』の続編である『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開されています。
↓画像引用
公開直後からネガティブな情報が多く、とても心配しました。
実際私も鑑賞しましたが、物語のスケールがあまりにも小さく、物語の進行を邪魔する粗悪なミュージカルシーンに辟易しました。
はっきり言って、つまらない作品です。
それは逆を言うと、第1作目があまりにも完成された作品だったあらわれなのです。
続編など入る隙のない、美しくて悲劇的な完璧な“ジョーク”だったのです。
しかし、そんな完璧な作品を作り上げたトッド・フィリップス監督の続編を、ただ「つまらない」と一蹴していいのでしょうか?
彼が描きたかったメッセージが確実にあるはずです。
今回はその“ヴィジョン”を考察していきたいと思います。
私は以前、このブログで前作『ジョーカー』を考察しました。
その考察を要約すると、
作品で描かれている主人公アーサーの悲劇と覚醒は、すべてジョーカーの”ジョーク“だったということです。
いったいどういうことか。
これは、『ダークナイト』公開後に全世界に出現した、
「俺はジョーカーだ!」
とジョーカーに憧れた奴らに
「そんなわけないだろ、バーカ」
と、ジョーカー自ら嘲笑するという、非常にタチの悪いメッセージの映画だったのです。
しかし、それを直接的に描かず、様々な解釈ができるように終わるので、誤解した人も多くいます。
そこで登場したのが続編である『フォリ・ア・ドゥ』です。
この作品は、刑務所の中で生活するアーサーから始まります。アーサーはおとなしく、気弱そうです。
前作のラストでみせた狂気のジョーカーはどこにもいません。
そして劇中では、アーサーが殺害した人数が“5人”だと指摘されます。前作ラストで殺害したカウンセラーが含まれていません。
つまりこの続編は、“ジョーカーのジョーク”の続きなのです。
いやいや、そのカウンセラーはジョーカーに襲われただけで死んでないかもしれないじゃん、とあなたは思うかもしれませんが、それなら傷害事件として裁判で触れられるはずです。しかしこの事件についてはまったく触れられないので、この世界線では起きていないのです。
“ジョーカーのジョーク”で展開されるジョーカーとハーレイの“フォリ・ア・ドゥ(二人狂い)”。
本当にハーレイは存在するのか疑ってしまうほど、崩れそうな世界観で二人は歌い、踊り狂います。
そして裁判に出廷するアーサー。
ゴッサム市民が注目する中、ジョーカーを支持する民衆で裁判所前はカオス状態です。
裁判で争われるのは、アーサーは二重人格であるかどうかです。
別の人格であるジョーカーが犯行に及んだかどうか。
しかしアーサーは思い通りに裁判が進まないことに苛立ち、彼はジョーカーのメイクをし、自ら弁護士となって法廷に立ちます。
裁判はジョーカーのステージとなります。
彼は狂人を演じます。
しかし元同僚のゲイリーは、アーサーを「心優しい人」と法廷で証言します。
ジョーカーを演じてるアーサーの心が揺らぎます。
「自分は本当にジョーカーなのか?」
それでも彼は強がり、テレビカメラの前で刑務所の看守をバカにします。
それが原因で刑務所で看守からの暴行を受け、独房に入れられます。
しかも、初めて愛した女性リーは、精神病患者でもなく、金持ちの娘で、嘘をつかれていました。
彼のプライドが壊れた瞬間です。
アーサーは最後の法廷で、「私は私だ。ジョーカーはいない」と証言します。
その発言に失望したリーや、ジョーカーを信奉していた人々は席を立ち、その場を去ります。
これがこの作品のメッセージです。
「この世界にジョーカーはいないし、お前はジョーカーでもない」
今回は前作でぼやかしたメッセージを、はっきりと明確に発信しています。
ジョーカーに憧れている奴は全員バカです。
そのメッセージを発した瞬間、裁判所は何者かに爆破され、アーサーは逃亡。そのシーンを長回しで描くという驚異的な展開に突入。
今まで退屈だった物語が、急に映画的に変わります。
それはアーサーに心象風景のようです。
自分の弱さを認め、仮面を脱いで解放されたアーサーそのものです。
この作品は、非常に退屈です。
しかしそれはアーサーの精神世界を描き、そしてジョーカーという存在を完全に否定するための手段です。
私たちは気づくでしょう。
狂人を装う人間の心は、なんて退屈で薄っぺらいんだと。
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