みなさんこんにちは!
くましねブログの時間です。
前回は、出雲王家の血を継ぐ富家で伝承される出雲口伝では、日本には天孫族が統治する前は出雲族の王国があり、その出雲族はインドからやってきたクナ族で、福島県双葉郡浪江町の苕野神社に祀られる五十猛(イソタケル)神は、出雲族の王家の血を継ぐものだと説明しました。
五十猛神は『日本書紀』によるとスサノオの息子として登場します。
ちなみに苕野神社に五十猛神と一緒に祀られている大屋津(オオヤツ)姫神、抓津(ツマツ)姫神は五十猛神の妹です。
しかし、出雲口伝によりますと、五十猛(イソタケ)は出雲国王の八千矛(ヤチホコ)の娘の高照姫と、徐福との間の子どもであるというのです。
徐福とは、秦の始皇帝の「蓬莱にある不老不死の薬を持って参れ」という命令により、日本にやってきた男です。
しかし彼は、日本の王になる野望がありました。なので、出雲王の娘と結婚し、子供を作ったのです。
その後徐福一団は国王八千矛と副王の八重波津身(ヤエナミツミ)を暗殺し、秦へ逃亡。
(ちなみに記紀では、八千矛は大国主、八重波津身は事代主のことです)
その事件をきっかけに出雲国は分裂します。五十猛は海部氏を名乗り、出雲王家の分家とし、丹波に国を築きます。
そして五十猛の息子の村雲は、ヤマト国の初代大王になります。
つまり五十猛とは、中国の血が入りながらも、出雲王家としての誇りを持ち、勢力を拡大していった男です。
出雲口伝の本には大屋津姫神、抓津姫神の記述はないですが、もしかしたら五十猛に妹がいたのかもしれません。
そして徐福は、“スサノオ”であると出雲口伝では語られ、ここでも記紀の記述と繋がります。
つまり、上記のことから苕野神社は出雲族の信仰の痕跡であり、私が以前主張した、「双葉郡は古代の聖地説」を裏付けるものだと思います。
さらに裏付けるのが、苕野神社の伝承に出てくる「阿部」という男の存在です。
彼は何者なのか。出雲口伝と関係あるのか。
↓次回へ続きます。