サンカについて謎が多いのは、彼らが一般庶民と距離を置き、関わりを避けていたからです。興味本位で彼らを追いかけても、山の中で姿を消されてしまい、見失ってしまうと言われています。
そんなサンカについて、一級の資料と言われているのが清水精一の著書『サンカとともに大地を生きる』です。
清水氏は大阪府高槻市の地主の家に生まれ、酒造所を経営していましたが、「これは自分の道ではない」と経営を辞めます。その後、仏門に入ったり山奥に小屋を建てて暮らしたりするなど、独自の人生を歩みました。
1916年(大正5年)には、大阪市にあった日本最大の乞食(あえてこの表現を使わせていただきます)集落「ミカン山」で3年間生活し、その体験を本書に記しています。
ミカン山とは、現在の大阪公立大学医学部附属病院の場所に存在していた被差別部落の集落です。この地には多くの天幕が張られ、300人を超える人々が暮らしていたそうです。清水氏や民俗学者の宮本常一は著書の中で、ここに住む人々を「サンカ」として記述しています。
しかし、詳しく調べると、この集落の人々を厳密にはサンカと呼ぶことはできないようです。
もともと大阪市には、大きな被差別民の集落が4つ存在しており、これらの集落は「垣外(かいと)」と呼ばれ、垣で囲まれた世俗と隔絶された場所でした。
明治4年の賎民解放令によって、穢多(えた)の人々は地元にとどまりましたが、転びキリシタンや心中の生き残り、飢饉から逃れた農民などの「非人」と呼ばれる人々は、その土地を追われました。そして、これらの非人たちが集まった場所がミカン山だったのです。
したがって、ミカン山の住人たちはサンカとは異なる存在でした。以前の記事でも述べたように、サンカの定義が曖昧であったため、こうした誤った記述が生まれたのでしょう。
ミカン山の人々は乞食として道行く人々に物乞いをして暮らしていました。清水氏も彼らの生活に倣い物乞い生活を始め、集落のリーダーの娘と結婚します。しかし、物乞いをしているところを親戚に目撃され、一族の中で大問題に発展しました。さらに、彼の行動に猛反対していた弟が自殺するという悲劇も起きています。
その後、警察による「乞食狩り」が行われ、清水氏は物乞い生活を断念。ミカン山の人々を支援する活動を始めます。
そして昭和5年、兵庫県武庫郡(現在の神戸市北区)に「同朋園」という支援施設を設立しました。その後は社会活動家として生涯を送りました。
ミカン山があった場所の近くには、現在、日本一の高さを誇るビル「あべのハルカス」が建つなど、大都市として発展を遂げています。しかし、わずか90年前、この地はまったく異なる景色と暮らしが広がっていたのです。
参考文献