先日私が参加した、せんだいメディアテーク「てつがくカフェ」。
その参加者の一人が、「南相馬市の電波塔の建設」について話をしていました。
南相馬市には、大正十年から昭和五十七年まで、高さ200メートルの巨大な電波塔がありました。この塔は、東京タワーが建設されるまで「東洋一の無線塔」として知られていました。 現在、「道の駅南相馬」付近には、当時の電波塔を20分の1のサイズで再現した記念塔が建っています。

その参加者によると、電波塔の建築工事に関わった多くの作業員は、「死刑囚と朝鮮人労働者」だったというのです。さらに、工事中に事故が多発し、多くの犠牲者が出たとのことでした。
そんな話は初めて聞いたので、大きな衝撃を受けました。
私が知っていたのは、関東大震災の際に、この電波塔がいち早く被災状況をアメリカに伝え、アメリカからの支援を受けるきっかけになったという、ポジティブな話だけだったからです。
興味を持った私は休憩中にその方に声をかけ、詳しく話を聞きました。そして、『巨大無線塔が消える』という本に、この話が書かれていると教えていただきました。
そこで、私は早速、南相馬市原町区の図書館に行き、検索機能を使ってその本を探しました。すると、「郷土」コーナーに所蔵されていることが分かりました。

この本は昭和五十六年に二上英朗氏によって出版されたもので、電波塔の建設から解体までの歴史を追ったものです。
本の冒頭には、建設当時の様子が詳しく記されています。
大正八年に建設が始まると、火葬場周辺に住む人々は、夕方になると上がる煙を不思議に思っていました。その煙からは、肉を焼くような異臭が漂っていたのです。
町では「朝鮮人が強制労働させられている」「死刑囚が連行されて働かされている」といった噂が広まりました。子どもたちは好奇心から建設現場に侵入し、そこで青い着物を着せられ、手を縛られ、網笠を被り、足を鎖でつながれた囚人たちを目撃したといいます。
ある証言によると、労働者の3分の2は朝鮮人だったそうです。日韓併合により、日本各地で強制労働させられた朝鮮人の一部が、原町の電波塔建設にも関わっていました。
工事は機械を使わず、ほぼ人力で行われました。大きなセメントを木製の滑車で運び、作業員ごと発動機で上へと吊り上げるという過酷な作業が続きました。

「原町無線塔」デビューからちょうど100年(令和3年7月1日)/南相馬市公式ウェブサイト -Minamisoma City-
夕方になると、工事現場から小さな箱を積んだ大八車が火葬場へ向かいました。最初は何が運ばれているのか分かりませんでしたが、やがて人々は、それが作業中に命を落とした労働者の遺体だと気づきます。
通常、遺体は棺桶に納められるものですが、この現場で亡くなった人々は、高所から転落し、身体がバラバラになってしまうため、小さな箱で事足りたのです。しかも、死者を弔う僧侶もおらず、記録すら残されないことが多かったといいます。彼らは「人間以下」として扱われていたのです。
こうした悲惨な状況から、人々はこの電波塔を「亡霊塔」と呼ぶようになりました。
多くの犠牲を払いながらも、大正十年七月に塔は完成し、原町送信所が開局しました。これにより、ハワイとの通信が可能になり、昭和三年にはサンフランシスコとの中継も実現しました。
しかし、大正末期に真空管が発明され、受信機の性能が飛躍的に向上したことで、国際無線局は短波通信が主流となりました。その結果、原町送信所は廃止され、電波塔はたった10年しか使用されませんでした。
さらに「亡霊塔」の悲劇は続きます。
戦時中、この電波塔の存在が米軍の攻撃対象となり、とくに1945年8月9日からの大規模空襲で、多くの人々が命を落としました。奇しくも、この日は長崎に原爆が投下された日でもありました。
現在では、塔のミニチュアが残るのみで、過去の惨劇を語る人はほとんどいません。
福島県相馬地区には、このような歴史的な悲劇が刻まれています。私たちはこの過去を直視し、受け止めることで、真の復興へと進むことができるのではないでしょうか。