阿片王と呼ばれた里見甫(はじめ)の働きかけにより設立された「満州国通信社(国通)」は、戦後の電通・共同通信・時事通信の前身となりました。
通信社や広告代理店の役割を担っていた国通ですが、実はその裏で諜報活動も行なっていた可能性があります。
直接的な資料は存在しないものの、元社員の証言から、その実態が浮かび上がってきます。
元共同通信外電部長の木原喜一氏は、アマチュア無線の技術を活かすため満州に渡り、新京の商社で無線技師として働いていました。そこで女スパイとして名高い川島芳子と出会い、その縁から国通に無線機を納入することになります。
この取引を通じて木原氏は里見甫と初めて対面しました。里見は高価な無線機を値切ることなく10台購入し、その器の大きさに木原氏は感銘を受けたといいます。
しかし、数日後、木原氏に「関東軍司令部参謀本部に出頭せよ」という命令書が届きます。指示に従い参謀本部へ赴くと、彼を待ち受けていたのは、戦後A級戦犯として処刑された土肥原賢二でした。土肥原は大きな地図を広げ、ソ連との国境状況を説明した後、木原氏に「君の無線技術を国のために役立ててくれないか」と持ちかけます。しかし木原氏にはピストルの銃口が向けられていました。それは決して選択の余地がある申し出ではなく、木原氏は半ば強制的に軍事学校に入学させられたのです。
新京郊外の軍事学校では、東京・中野にある陸軍中野学校から派遣された教官たちがスパイ技術を指導していました。中野学校は、日本陸軍が極秘に設立したスパイ養成機関であり、その訓練内容は過酷を極めました。
木原氏の同期は10人、訓練期間は1年間。内容はまるで映画『007』のようなものでした。
特に最後の訓練は、若い兵士たちにとって過酷なものでした。絶世の美女と二人きりの部屋に閉じ込められ、誘惑を断ち切る精神力が試されました。ソ連の色仕掛け工作から機密情報を守るための訓練とはいえ、それは拷問に近いものだったといいます。
そして迎えた卒業の日、教官から「卒業祝い」として渡された箱を開けると、中にはロシア人の生首が入っていました。教官は言います。
「これは敵のスパイの首だ。君たちはこうならないように鋭意努力せよ。万が一捕まり、逃げられなくなった場合は、手持ちの爆弾で直ちに自爆せよ。」
卒業後、木原氏はハーレーダビッドソンのサイドカーに無線機を積み込み、黒河からシベリアに潜入。ノモンハン、モンゴル、ウルチムと転々としながら任務を遂行しました。そして5年後の昭和13年、ついに任務を終え、新京へ帰還。彼は「満州国通信社(国通)」へ入社します。
国通での彼の仕事は、満州全土の情報をわずか10分以内に同盟通信社へ伝達できる通信網を整備することでした。この通信網の敷設は関東軍の命令であり、木原氏は満州の辺境をくまなく巡りました。これは単なる通信インフラの整備ではなく、軍事的な情報収集網の構築でもありました。
昭和16年、木原氏は同盟通信社へ出向することになり、9年ぶりに日本へ帰国します。しかし、彼が受けたスパイ訓練は戦争とともに消え去ったわけではありません。国通にはスパイとして訓練を受けた者が多く在籍し、関東軍の諜報活動を間接的に支えていたのです。
このスパイネットワークは国通に留まらず、陸軍中野学校を卒業した者たちは昭和通商などの企業へ入り込み、中国大陸で暗躍していくことになります。
次回は、この満州スパイネットワークがどのように戦後の日本へ影響を及ぼしたのか、さらに詳しく追っていきます。

砂上の国家 満洲のスパイ戦 - プレミアムA:朝日新聞デジタル
参考文献

